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間宮緑さんの新作小説『語り手たち』が「群像」9月号に掲載!

 

 今年一月、三島市にいらっしゃる小説家、間宮緑さんに「小説家という職業 心と言葉と仕事」というタイトルでお話をしていただきました。水曜文庫にて20人以上の参加者が集まりお話をうかがいました。 
 ご参加いただいた方たちの役得で、書き起こして不特定多数のみなさんに読んでいただくのはどうなのだろうと考えていましたが、それから半年ほどが過ぎて、間宮緑さんの新作小説が文芸雑誌「群像」に掲載されるとのことを聞きました。このようなかっこいい書き方をされる小説家が今の県内にいらっしゃるということを誰彼かまわずに吹聴したくなりました。小さな媒体ではありますが、一人でも多くの方に読んでいただきたいと思い、もちろん当日のお話の抜粋ではありますが、書き起こしたお話を読んでいただいて、文芸誌を本屋さんに買いにいってもらえたらこんなにうれしいことはありません。もちろん図書館で読んでいただいてもよいのですが。
 主に間宮さんが小説を書かれるときに考えることを三つのテーマに分けて書き起こしました。


心と小説

 

 まず最初に自分の心と向き合わないとぼく自身は小説を書くことができません。小説家は人を面白がらせたり、人に楽しんでもらおうというふうに小説を書くのだと思いますし、もちろんぼく自身もそうなのですが、でも自分の心と離れたところで小説を書いて人を面白がらせるということはぼくには無理なのです。
 さっき略歴で少しお話をさせてもらいましたが、思いもよらず学校に通えなくなったり、十代でしたからいろいろとあきらめなくてはいけないことも多かったのですね。そんなときに自分を救ってくれたのが文学、詩や小説でした。その自分を救ってくれたような詩や小説を書きたいというところから出発していますから、読んで面白いだけの小説というのは自分の世界観にはないのです。
 どこか変なスピリチュアル的なことに聞こえるかもしれませんが、だから小説を書くときに、ぼくの場合には自分自身の心を見つめ、そこに何があるのかを見なくちゃいけないのです。
 以前僧侶が砂漠を旅をするという小説を書いたことがあります。自分の悟りをひらきたいがために旅をして歩き回って、どこかに修行ができる僧院があるはずだと探します。そこで修行をして悟りを得たいんだと僧侶は考えているのです。でもぜんぜん僧院は見つからなくて僧侶はへとへとになってかわりに見つかったサーカス小屋にたどり着いてしまいます。猛獣と猛獣使いが出てきて、猛獣使いは「こいつは怖そうに見えるけれどほんとはおとなしい奴なんですよ」と説明するのですが、でも僧侶はその猛獣をとても怖がるのです。猛獣に睨まれているようにも思うし、今にも食べられてしまうのではないかと僧侶は妄想します。猛獣使いは僧侶をからかうように笑うのですが、僧侶はそれでもずっとおびえたままでいるのです。
 この小説は、ぼくの慕っていた詩人の先生が亡くなった後に書き始めました。そのふたつは関係がないように見えるかもしれませんが、とても強いつながりがぼくにはあるのです。
 ぼく自身、悟りをひらきたいと思わないまでも、当時まだ若かったですから、自分の殻を破りたいというふうに思っていました。とてもぴりぴりしていてアグレッシブで、「新しい小説」、「新しい文学」を書かなくてはと心がとがっていました。ところが、この詩人の先生という人はもっと穏やかな方で、それこそ自分自身をしっかり見つめて静かな心で書く方でした。戦争の記憶があったり、息子さんを亡くされたりという個人的な思いを詩のなかに込めて書くのですが、だからといって悲壮感の漂わない素敵な詩を書く方でした。
 だからその方とくらべることもおこがましいのですが、当時先生が亡くなったことがありましたから感傷的になって書いた小説がこの「砂漠を旅する僧侶と彼の出会うサーカス小屋」という小説に出来上がった。単に思い付きと言われればその通りなのかもしれないのですが、見たくないものですとか、自分自身「ここはダメなんじゃないか」というような自己批判も含めながら自分の心と向き合わないと、物語が浮かんでこないのです。

 

 自分の心を見つめるということは、今まで言ってきたことと矛盾するかもしれませんが、必ずしも独り言のように自分だけを見つめるということではないのだと思います。自分といってもそれは人との関係のなかにあるものです。一人で存在しているものではなくて、誰かと誰かの関係のなかにあって、その彼・彼女が誰なのかによって自分も自分の心も変わってくる。友だち同士といる自分と、こうして集まって真面目な話をしている自分は同じわけではない。使い分けているのではなくて、その都度自分が変化しているのだと思っています。自分をすべて把握することはできないし、言葉遣いも変わりますし、テーマも変わってしまう。そういう意味でさまざまな場所に自分が出かけて行って、そこで自分がどのようにふるまっているのか、どんなふうにしゃべったのかということをどこか醒めてみているようなところがあります。よかったとか悪かったということではなくて、どんなふうに変化したのかを見る。結局、自分を見つめる、また書くということはある意味人を見つめて書くということでもあるんだと思うのです。自分と人との関係を書く。他人の心のなかを覗いて書くということはできませんから、そうするほかないのだと思います。でもその時にただ一人立ち尽くしているのではなくて、関係性をどのように小説に反映させていくことができるのかをいつも考えています。


言葉について

 

 今日のタイトルのこと、今度は「言葉のこと」です。いくら自分が心のなかでさまざまなイメージを持っていて、たとえばその詩人の先生について、今こうやってお話をしてみても伝わらないと思うのです。もちろんいくらかは自分の抱いている先生のイメージが皆さんに伝わったかもしれませんが、でもたぶん小説の言葉で書く文章を読まれたほうが強烈に伝わるのではないでしょうか。心というのは自分自身のなかにあって自分にはよくわかっているけれど、他人に伝わるものではない。イメージを羅列して、例えば白髪で身長がこのくらいで・・・、と説明してもディテールが明らかになるだけで、伝わるものではないのではないかと思います。
 小説を書くときに、例えばその先生のことを書くとすれば、「静かな笑ったような」というふうにぼくは形容するかもしれません。だから読者の方たちがイメージしやすいような言葉を考えるのです。それは自分のイメージそのものではなくて、読者に読者自身の心のなかで思い浮かべてもらえるようにしています。小説を書くときにぼく自身大切に思っているのは読む人のことを常に考えることです。ウケを狙うという意味ではなくて、こう書いたらこう思ってもらえるのではないか、相手がどう思うかということをいつも意識しています。
 自分の伝えたいことを全部書こうとするととても長くなってしまいますよね。あれもこれも書きたいと、例えば先生を思い出していたら「あぁ先生はえくぼがチャーミングだったなあ」ということまで全部書きたくなってしまうかもしれない。でもそうして書けば書くほどノイズが大きくなって伝わらないということがあるかもしれない。聞き逃される言葉が出てくるかもしれない。そういう難しさが言葉にはありますよね。
 どうすれば読者の心に、書いている自分の心にあるイメージとはまったく同じものではなく、その読者ひとりひとりそれぞれが持っている記憶のエッセンスから湧き上がってくるイメージを先生の像・形に膨らませることができるのか。自分の持っているイメージをそのまま言葉にするのではないということです。だから、こんなふうに表したらこんなふうな像が読んでくれている人の心のなかに誕生するのではないかということを考えながら書いているということです。
 簡単な例を言えば、どこか旅をしていて、夕焼け空が美しいなあと感じたことを小説に書こうとする。その時に、「雲がたなびいて西の空に太陽が沈みかけていて、二つある山並みの山裾に・・・」と書いていくとしますね。それは確かに描写なんですけれど、説明的ですよね。こう書いた場合、美しい夕焼けだなあと感じた自分の心が読者に伝わるかといったらどうなのでしょう。もう一つ方法があるとすれば「美しい夕焼けが広がっていました」「それは美しい夕焼けでした」と書けば、それはその通りの意味なのだから読者に伝わりはすると思うのです。でもそれはやはり辞書的な理解のような気がします。読者がその言葉のなか、小説のなかに入っていけないのではないかと思うのです。
 だからもしぼくが書くのだったら、今考えることですからうまく言えないのですが、「歩いている青年がふと立ち止まって空をしばらく眺めていた。彼は家路を急いでいたが、夕焼け空をしばらく眺めていた。それからまた歩き出した」とこういう書き方をすると思います。そうすると、なにか特別に夕焼けがすばらしく美しかったという大きな感動にはならないかもしれないけれど、でもどうして急いでいたのに彼は立ち止まったのかということを読者は思うかもしれない。きっと夕焼けが美しかったからだろうなと感じてくれるかもしれない。そうやってぼくはあえて夕焼けがどんなふうだったかは書かないけれど、じゃあ何を書いているのかといったら、読んでいる人の記憶をちょっとつついて思い出してもらうのです。きっと読者の皆さんにもそんなことがあったと思うのです。急いでいたんだけどふと空を見上げたら、ということが。それそれ、その光景ですよって。そうして辞書的に理解するのではなくて、小説の世界のなかに一歩足を踏み入れてもらうことができたらと考えながら書いています。

 

 まず自分の心を見極めるということ。風景だけじゃなくて記憶だったりさまざまなことがあります。皆さんにもいろんなことがあると思うんです。人に言えることばかりじゃない。悲しいこともあるしうれしいこともあるし、言葉で説明してもわかってもらえることばかりではないですよね。自分の記憶をビデオにして見せたらやっとわかってもらえるんじゃないか、という複雑な思いってあると思うのです。でもある意味、ぼくはあきらめてる部分があって、自分がいくら言葉を尽くしてもそれと同じイメージを相手に与えるということはきっとできないのではないかと思っています。だから、自分が持つイメージを相手にわかるまで説明するのでなく、この文章で読者がどう想像するか、読者のなかでの言葉と想像のメカニスムみたいなものを考えながら言葉を選ぶのです。相手の心、といっても目の前にいるわけではないのですが、読んでくれる人のことを想像して、きっと彼・彼女もふと立ち止まって空を見上げたことがあるんじゃないかなと想像するんです。

 

 ぼくの書く小説には風景描写が多いと思います。心理描写をする代わりに風景描写を書くことが多いので、自然そうなります。さっきの「夕焼け空」の例えもそうなのですが、登場人物がどんな感情を持っていたかということ。「彼の心は土砂降りのようだった」ですとか「胸が塞ぐような」ですとか、そういった例えや形容を使った書き方ではなくて、ぼくなら「ふと、窓の外を見ると木が風に吹かれてざわっと揺れた」、このような書き方をします。でも木には感情はないし、風に感情があるわけではありませんから、その文章に意味があるわけではありません。だけど、例えば散歩をしていて、その途中喫茶店に入って窓際の席でちょっとためいき交じりに窓の外を見たら、木がざわっと音を立てた、というとどこかちょっと寂しい感じがしないでしょうか。そういうことがぼくの書きたい心理内容なのです。
 「さびしいな」と書けば、読者は「彼はさびしかったんだな」と受け取るだけです。でもそのとき、「木がざわっと音を立てて揺れた」と書けば読者はその光景をイメージしてくれるから、それは読んでくれている人自身の寂しさにもつながるのではないかと思うのです。それが風景描写のよさなのです。心理描写で読者が受け取るのはあくまで第三者の視点で登場人物の心理のイメージを理解することになりますが、風景描写で説明すれば、読者自身の感情を登場人物に投影することができて、よりリアルに受け取ることができる。読者が小説の世界のなかに入ってきやすくなるのではないでしょうか。


ストーリーについて

 

 まず机に向かって原稿用紙にあらすじを書きます。もう一つ、お風呂に入ってるときや、散歩をしているときでも、必ずメモ帳を近くに置いていて、気が付いたことや思いついたことがあったら、すぐにメモを取ります。メモを書く段階では主に会話が思い浮かんできます。散歩しているときに聞こえてくる他人の会話ではなくて、その物語のなかの会話が思い浮かびます。さっきの僧侶と猛獣使いの話なら、彼らはどういう会話をするのだろうということを考えているのです。例えば、
「あなたが探しているのはサーカス小屋ですよね。」
「いえ違います、わたしが探しているのは僧院なのです。」
「僧院もサーカス小屋も同じことですよ。」
などとこういう会話が浮かんで来たらすぐにメモに書き写します。それをたくさん集めるようにするんです。
 ストーリーを大まかに決めて書き始めてゆくのですが、こちらも気合が入っていますから、どんどん書いていって、それを読み直してみるとどこか物語をわざわざ作ってしまったような感じがどうしても出てきてしまいます。こちらもやっぱり気が焦っていますから、ベルトコンベアに載せられて完成品が出てきましたというようなわざとらしさがどうしても出てしまう。先ほどの会話であれば、無意味に思いついたことではなくて、
「あなたの探しているものは僧院ではないのだ。あなたが探してるのはサーカス小屋なのだ。」
という天の声を暗示しているやりとりがあって、それを鈍い僧侶は感じることができないということにつながっていく会話になるのですが、そのように話を混ぜっ返すような先の「会話」をその都度挟んでいかないと、作者が書きたいことの予定調和的な小説になってしまいます。最初から「あなたが探しているのはサーカス小屋なのだ」と断定してしまうとわざとらしい。だからさっきの意味のないような会話が必要になってくるのです。
 また僧侶がやっと、探していたのはサーカス小屋なんだと気づいたところまでは書かなくても、読者にそのことをなんとなくにおわせるだけでよいと思います。世の中で普通に暮らしていて何もかも教えてくれる人なんてなかなか現れない。でもふと誰かの言った言葉で気付くことってあると思うのです。だから自分の言いたいことをストレートに書くのではなくて、読む人たちが想像してもらえる余地を残しながら書いています。

 

 ぼくの場合、一つの小説を前半・中盤・後半と分けるとすると、中盤の部分に自分の一番書きたいことを据え置きます。なぜそうするのかというと、もし最初から結末にそれを置いてしまうと、小説を書くのは三日で終わることではないですから、その長い期間の間、自分の考えが変わらないことになってしまうと思うのです。長編小説の「塔の中の女」についていうなら、ギリシア悲劇の復讐譚をもとに物語が進んでいくのですが、でもその復讐という行為はこの物語にとって本当に必要なのだろうか。オレステスはこの物語のなかで復讐がしたいのだろうかということを考えながら書いていました。
 またこの小説には、ガラクタでできた公爵が出てきます。彼は、なんというか社会悪というのか、悪徳政治家のような存在なのですが、だけど果たして公爵に対してNoを突き付け破壊したところで何かが変わるのかなあということをぼくは考えていました。
 でも最初からそこが結末になっていたとしたら、その書いている間自分が何を悩めばよいのかわからなくなってしまうのです。だからあえてそこを結末にするのではなくて、その後どうするのかということはいったん保留にしておいて、そこを考えるのはそこまでやっと書いた、たどり着いた自分が考えようと思うのです。長編小説ですから大きなテーマがいくつか混在しているのですが、それぞれについて書きながら考えていくのがぼくのやり方でした。

 

 「塔の中の女」には主人公がカレーライスやおにぎりを食べるシーンが出てきます。実はこの小説は沼津や熱海を取材して書いているんです。でも小説のなかでは地名を出していませんし、外国だとも日本だとも書いていないのです。フィクション、空想の世界のお話になっています。おにぎりは出てきますがことさら日本的な印象があるわけでもありません。
 空想の世界で、でも魔法が出てくるわけでもなく、どこでもない世界を描きたいと考えていました。どこでもないけれど普遍性があって誰もが懐かしさを感じるような世界を描きたいとおもっていました。どの年代の方もどこに住まわれている方でも知っていると思うことのできる場所。

 

 「ぼく」という主人公にしても、自分自身を投影して書きたいわけではないのです。自分の心から出てきたものをそのまま自分の言葉として小説に書きたいわけでもない。自分自身何か思想を伝えたいというのではない。自分のイメージと同じものを読者に感じてもらいたいと思っているわけでもないのです。読んだ人がそれぞれこの小説の世界のなかに入って感じるイメージを楽しんでもらいたいと思って書いています。自分の作った世界のなかで、ぼくはさまざまなイメージを感受しましたが、あなたはどのように思いますか?どんなふうに感じるでしょう、ということが伝えたいことです。だから「ぼく」というのは、読んでくれている読者それぞれのことでもあって、彼・彼女が「ぼく」のなかに片足だけでも踏み入れてこの世界を感じ取ってくれればいちばんいいのですが。

 

 

 

間宮 緑(まみや みどり)
1985年生れ。静岡県三島市在住の小説家、たまに農家。
2008年「牢獄詩人」で第22回早稲田文学新人賞(中原昌也氏選考)を受賞後、文芸誌を中心に小説を執筆。
2011年に長篇小説『塔の中の女』(講談社) 、2018年に『九月、東京の路上で』(加藤直樹)をエスペラント語訳した «Septembre, surstrate en Tokio» (ころから)
が刊行された。

2019年新作小説「語り手たち」を群像9月号に発表。