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多々良栄里写真集 「さようであるならば」のお取扱い


物語は風景の描写がなければ平板なものになってしまって詰まらない、風景を書き込んでゆくことが大切なんだというのは保坂和志さんの小説論で読んだことですが、でも風景を書き込むことに躍起になってゆくとどんどんわかりにくい小説になってゆきます。風景が物語を補完するのではなくて暴れだしてしまう。「私の濃度」と「風景の濃度」が混然一体となって、自然がどんどん物語に侵食してわかりやすさを奪って行ってしまう・・・。でもそのわかりにくさが世界の豊穣さでもあると思います。
わかりやすさというのがいいのか悪いのか、もちろんぼくはわかりにくい方の立場で、それを面白いと思うのですが、とにかくこの多々良栄里さんの写真集を見せていただいてそんなことを考えました。
さまざまな人物たちの何気ない表情をした姿が風景のなかに映っていて、一見とてもわかりやすそうな写真です。笑っている人が多いし、物語的に言えば多幸感が占めているのかもしれない。風景も美しい瞬間をベストな構図で切り取っています。でもどこか不穏な感じがして、しかしそれがなんだかわからないのがまた何と言ったらよいのか・・・・?何度も見返してしまう写真です。
「・・・」ばかりですが、でもまさにそんな感じ。見る人が見れば日常を切り取った美しい写真だと思うでしょうし、また「不穏」と言っても人物の後ろで大きなカラスが薄笑いを浮かべているというような写真では間違ってもありません。きっとで人間や物語、またそれを取り巻いている風景、それに時間も含めて、そのどれをも等価に写真に撮ってしまうと「わかりにくさ」が出現してそれを「不穏」だと察知してしまうのではないかと思います。世界の不穏さを豊饒さと言い換えてもよいのだと思いますが、そのような視点を意識されるされないにかかわらず作者は持たれているのではないかと思いました。
静岡新聞社の雑誌編集からキャリアを始め、「おばあちゃん劇団 ほのお」や有機農業で酒米を作る青年を取材した「松下君の山田錦」といった写真を撮られてきたのだからもちろん風景にことさらウェイトを置いて仕事をされているのではないことは当然であり、ぼくは今写真集を宣伝しようと多弁を弄しているのに「わかりにくい」だの「不穏」といったおよそ宣伝とはかけ離れた言葉を使ってしまっていて、それはまったく取り下げてもいいというか、取り下げなければいけないという気がするのですが、だったらぜんたいお前は何をしているんだということもあるのですが、しかしとにかくこの写真の風景が突き刺さったということだけは言いたいと思います。とても不思議な感触のする写真でした。

この写真集は今戸田書店、谷島屋書店のHPで検索してみましたが在庫をしていませんでしたのであまり現在店頭には並んでいない写真集だと思います。ぜひ見にいらしてください。「さようであるならば」という題の由来を書いたあとがきもとても素敵な文章です。よろしくお願いいたします。

「さようであるならば」多々良栄里 蒼穹