水曜文庫の日記 Tel:054-689-4455

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モヘ・オオイシさん、ゆみたさんのZINEを置かせていただいています。                                         (何日か前の付け足し「短歌と音楽と美術」)  

昨日は閑散とした一日だったけれど、若い女性が塚本邦雄の本を買っていってくれたし、それに浜松在住の歌人、白川ユウコさんが店に寄ってくださって作られた「歌集 乙女ノ本懐」を置いて行ってくださった、短歌づいた一日だった。

以前ギターケースを抱えたまだ若い男性が、棚のなかに埋もれていた坪野哲久の本を帳場に持ってきたときにはけっこう驚いたし、よく来てくれるミュージシャンは店を一回りして「うーん、今日は買うものがない」となると俳句短歌の棚に向かってどれか一冊をこちらに持ってきてくれる。だから音楽と相性が良いのかしら、まあどちらも歌だからなとは思うものの、そんな相性は新刊書店に勤めていたときには思いもしなかったことだ。みんな強度をもった言葉を探してるんだなと思う。

この間男女二人のバンドの音楽をライブハウスで聴いた。耳触りがいいのか悪いのかそのぎりぎりのような演奏をする人たちで、こういうのをビッチフォークというのかしら、もうそんな言葉はだれも使わないかもだけど、とにかくそうして典型化して聴くのはよくない聴き方だとは思うものの、おじさんになってしまったので仕方がない。ごめんなさい。
彼らが歌う歌の歌詞をぼくは一生懸命聴き取ろうとするのだけれど、どこかに流れていくばかりで頭のなかにどうしても残っていかない。それは相性の問題なのかどうか、ほんとうにワタシはおじさんになってしまったので彼らとは位相が違ってしまって聴き取ることができないのか、でもやはり彼らは「残らない」言葉を選んで組み立てていてまたそのように歌っているのではないかとぼくには感じられた。破壊力をもった残る言葉を目的にしたワンフレーズを探している音楽家もいれば、残ることを拒否する人たちもいるのだ。何度も聴いて解読をすればワン・フレーズの強度とはまた違った印象を残すのかもしれないとは思うものの、でもやっぱりわからせてたまるかという迫力が彼らの演奏にはあったような気がしました。

別の日にzineの展示に出かけて買った1冊のあとがきに「私は、ことばを話すのが好きだ。けど世の中にころがってることばはきらい。・・・・」と見つけて、その後にも文章は続くので単に言葉に対する怨念なんかではもちろんなくて、やっぱりことばを探す別のやり方なんだと思うし、いいじゃんいいじゃんと最近立て続けに思ったこといくつか。

とここまで書いたところで、そのzine、モヘオオイシさんの作られた「ぼくはことばのとりこ」を店で置かせていただけることになりました。なんどか読み直しました。最初「寄生獣」かあ、それならおっさんも知ってるぞと読み始めましたが、もちろんぜんぜん違います。言葉がモチーフの一つになっていながらその言葉の出てこない不思議な、こうして言葉で説明しようなんていうのが野暮に思える作品集です。今ここにある言葉を拒否しているようなと言ったらいいんでしょうか。どう思われるのか?ぜひ手に取って見にいらしてください。
zineですから内容、表紙、綴じなどは自前で作られています。一冊づつ手触りが違うのがよいです。

もう一冊、同じくzineの展示であがなわせていただいた、ゆみたさんの「よるのかいぶつ」。よるのかいぶつと子どもをめぐるお話と絵でできている本ですので、こちらは絵本のコーナーに置かせていただきました。

水曜文庫の向かいにあるギャラリー・とりこさんは本日6年間の歴史を閉じてしまいます。寂しくなってしまいます。心細くて手前勝手な寄る辺ない気持ちになってしまいますが、大野カメラさんがお仕事のはざまで毎日忙しく運営に動かれていたのを見ていますので、「お疲れ様でした」「ありがとうございました」というほかはありません。ここではさまざまな若い人たちの展示がありましたが、そこでゆみたさんの描かれたものを何度か見させていただきました。
Popなのにどこか鄙びた作風がどこから来るんだろうといつも思っていました。古本の絵本というのは新刊と違ってうすぼやけているというか、インクが紙になじんで鄙びていてぼくは好きです。ゆみたさんの線は現代的でまったくぼやけてなんかいませんが、でもどこかに鄙びた感をまとっている。・・・といってもワタシが感想をいうべきではありません。皆さまがどう思われるのか、ほかではなかなか読むことのできない本です。ぜひ見に来ていただければと思います。
よろしくお願いいたします。