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古本市探書会 16日トークイベントについて

ぼくの以前の職場の大先輩である杉本さんに、以前小川国夫さんについてお話をうかがったことがある。杉本さんはもうずっと若いときから小川さんとお付き合いがあり、バイクや車でいっしょに地中海を旅したり、「ものを書くこと」についてごくストイックな作家と濃い時間をともにしてきた人だ。わざわざ書く必要もないけれど、作家というステイタスに憧れて付き合っていたあまたの在郷の取り巻きとはまったく違う付き合い方をしてきた人。

下記の場所にあるインタビュー、聞き手(ワタシ)の力量不足は否めない。
https://sites.google.com/site/petercat01/xiao-chuan-guo-futoiu-ren
だけどこのお話を聞いてその後、「河口の南」(「アンソロジーしずおか 純文学編」所収)という小川さんの小説を読んでみるとぼくにとっての印象がまったく変わって見えたのはほんとうだ。
海でヨシキリに尻を噛まれてサッカー選手をあきらめなければいけなかった青年のぶっきらぼうな愛と性衝動を描いた、まるでATG映画を観ているようなやりきれない小説は、一読後「いったいこの小説を小川さんが書かなかればいけなかった理由ってなんなのだろう」と思う。またなにかそれだけ(物語だけ)ではない不思議な感覚が残り、それを消化できないでいた。
作者自身が主人公の青年に「気持ち」を仮託することが一切なく、また青年の心の内を勘釈しようともせず、誰が書いているのか、何のために書かれているのか、物語とか意味とかウザったいものを出来うる限りそぎ落とし、ヨシキリと主人公が等価な世界を描き、近代に生きている読者に読む意味を問うような、つまり人間という審級とは違う何者かが書いているような・・・、そんなことは不可能だけど、それが杉本さんが小川国夫を「職人」だという意味の一端なのではないのかなと思うことができた。よく小川さんは藤枝の蓮花寺池の傍をふわふわ浮遊するように散歩していたと聞いたことがあるけれど、その歩き方はその異質な審級を得るための身体的特訓だったのか?そんな想像さえしてしまう。「誰が何のために」ということを外した表現は、ごく普遍的なものだけれど、表層の上ではとても万人に受け入れられるものではない。日本語を解する人のなかで五人ほどにでも届けばそれでよい・・・。

4月16日(日)13;30より
古民家鈴木邸にて、「静岡が舞台の文学 小川国夫を中心として」
上記杉本博さま、「アンソロジーしずおか 純文学編」(静岡新聞社)の編集者石垣詩野さま、鈴木藤男さまにお話を聞く会をします。参加自由の会です。ぜひ聞きに来てください。

以下詳細
https://www.facebook.com/events/1412597942113287/