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一昨日の映画☆おにいさんの映画の会

自分たちの日常(世界)がどのように構成されているのか。翻ってそれを写す映画がどのように作られているのか。そんな答えは容易にはわからなかったけれど、「抱く」場面の映画を4本立て続けに見て、きっかけにはなったかもしれないと思いました。

映画☆おにいさんがいつも言うのは映画の場面をどのようにしてか微分して見てみろということだとぼくは勝手に簡略化して理解しています。物語に埋没して映像を見るのではなく、カメラの写し方、編集まで考えてみることで、物語=言葉以外の映像に構築されている世界を浮き彫りすること。また作り手のトリックを解き明かすことによってさらに映画の世界の奥へと分け入っていくこと。

言葉ではなく、登場人物たちの一つの所作(例えば「抱く」)によって今までくんづほぐれつしていた関係性が、絡まった糸がほぐれるように整理され物語に都合よく収れんされてゆく作品、また作者の意図に反して何か得体のしれないものが作品のなかに顕れてしまうのも映画のだいご味だ。そんな場面を映画のなかから取り出して見せることによって、明らかにされるもの。
連続性のある物語の上をぼくらは生きているわけではなくて、そのところどころをかいつまんで物語のようなものがかろうじて構成され生きている、また生かされているようなものなんだと思います。そして映画の作り手は恣意的にカメラを通して俳優たちに演じさせていく様をフィルムに焼き付け、さまざまな一回性の人生の再構成を試みる。映画☆おにいさんの提示する「場面」を今まで思い出せば、愛のささやきやさまざまなプロパガンダなど明らかな言葉によって決定されることなどほんとにパーセンテージの低い人生上の決定事項だということが知れてくる。登場人物を取り囲んでいる風景や登場人物たちが何気なくするしぐさや身体の係りなど、ぼくらはそうした感覚的な曖昧なものを無理やり言葉に落とし込んで生きているに過ぎないのかもしれない。もっと言えば近代をへて生きているぼくらは、そのような映像や小説など物語によって生きさせられているのかもしれず、そう考えてみると自分がただ空洞のようにも思えてくる。
しかし「言葉に落とし込む」だけで成り立っている人生のなんと味気なさ。意図しない小さなしぐさ、また意図したとしてもきっとその通りにはならない結果をもたらすしぐさらが積み重なってできあがっているひとりひとりということを考えれてみれば「ただ空洞」というのとはまた違う面白さを感じることができ、それがこの会のぼくにとっての面白さになっています。勝手な解釈ですが。