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「ひとを排除しない社会へ トランス・フォビアをめぐって」

 

お話:笹沼弘志(憲法学/ホームレス支援)    

8月18日(金)18;00より 水曜文庫にて  要予約・10名  参加費500円

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 本屋の棚に「ある性転換者の記録」(虎井まさ衛/宇佐美恵子 青弓社)「トランスジェンダリズム 性別の彼岸」(松尾寿子 世織書院)の2冊があったので読んでいる。ともに1997年、今の世論とはだいぶん違う時代の本。2冊目の本が「トランスジェンダリズム」と書いてあるのは、現在巷間で言われるようなトランスジェンダーという存在を手放しで擁護する人たちの総称という意味、つまり「間違った悪い思想」として使われる「トランスジェンダリズム」という意味ではなく、文字通りトランスジェンダーと呼ばれるようになった人たちの持つ「思想」という意味で使われている。近代になって1997年の20年前、1970年代からトランスジェンダーへの差別をやめ他の人たちと同じような生活を送れるような土壌を作ろうという当事者たちから始まりその支援者たちにも広がった運動があったということを知った。ほとんど知らなかった。

 

 上の300字のなかでさえ「?」という個所があるのではないだろうか。

 トランスジェンダーという人たちが人口の1パーセント未満いて、彼らの生活や権利について今まで彼らを「そんな人たちはいない」としてきた社会が上の本から20年以上たって、「彼らはいる」と認識を改めるところまできた。その上でさまざまな社会通念や生活様式やその先の法整備を当然していかなくちゃならない。もちろんトランスジェンダーの人たちのうちには「ほっといてくれ」と思う人たちもいるのかもしれないけれど、社会はほっといてくれない。

 「?」と思うのではないかというのは、なぜ彼らの存在を社会のなかに明記して、人権を回復し暮らしやすくするという行為が「間違った思想」とつながるのかというところだ。

 

トランスジェンダーという存在を認めジェンダーを女・男という二項以上にすること    を不満、間違いだと思う人たちがいる。性自認に基づく性転換を狭義にとらえ、勝手に第三のジェンダーを選ぶ自由はないという考え方。

トランスジェンダーのなかの女性として暮らす人たちが、女性たちのテリトリーのなかに入ってくることを怖いと思う人たちがいる。実生活のなかでも、また女性という存在のこれまでの時間や思想に彼女らが浸食してくることに対して「嫌だ」と思う人たちがいる。つまり、①の女性カテゴリーのなかにトランスジェンダー女性が入ることが嫌なひと、躊躇する人たちもいるということとぼくにはみえる。

トランスジェンダーの人たちを広く社会に受け入れようとする潮流がアメリカ・民主党政権の意向を汲んでいて、日本社会はそれを疑問視せずに、考えることなく受け入れようとしているのではないかという考え方。

トランスジェンダーの人たちの人権を回復し差別を無くし社会に受け入れていくという運動が、それを疑問視する考え方を排除しているのではないか。例えば雑誌への論文の掲載、出版を差し止めるようなキャンセル・カルチャーを差別反対運動が生み出しているのではないかという考え方。

⑤当事者と非当事者がいて、非当事者が当事者のこともわからないのに、感情だけでこの差別反対運動を擁護して盛り上げているのではないかという疑念。

 もっとたくさんあるのかもしれないけれど、上のような考え方が「LGBT差別解消法」を「理解増進法」と運動をしている人たちに言わせれば骨抜きの名称へと変化させた理由なのでないかと思う。

 

 50歳代後半、生活の上では保守的な暮らしをしてきたぼく自身、性自認ということを生活のなかで得心することができているのかいないのか。それほどまでに自分のセクシャリティということに無自覚で生きて来たし、女性という存在にも無自覚で生きてきた。きっと今までじっとりやらしい目で女性を見たりして嫌な思いもさせて来ただろうと思う。いやいやさまざまに迷惑をかけて来ただろうと思う。そのワタシが女性のテリトリーに口をはさむことがどうしてできるものだろうか。自分のごくごく私的な経験や知見と、今トランスジェンダーという人たちがいることとがうまくかみ合わないということは、ぼくにもわかる。

 しかし①から③はどこかフォビアに引きずられているようにぼくには見える。その正体のわからない他者が普通に付き合える隣人であるのならば起こらない論ではないのだろうか。そんなことを思っていたときに、ツイッターで笹沼弘志さんが差別反対運動に掉さす発言をしている人たちと盛んに討論・議論されているのを知った。根性がないのですぐにやめてしまったけれど、笹沼さんたちが活動されているホームレスの支援グループに少しだけ参加したことがあるので、見知っていた笹沼さんが、差別反対の立場からほんとうに丁寧に、丁寧にすぎるほど発言をされている。それなら、一度そのことについてお話をしていただけないかと、そのツイッターにしたってほんとにお疲れのことだろうに、お願いのご連絡をしてしまった。

 

 いちばん上の本二冊に先立って新刊「埋没した世界 トランスジェンダーふたりの往復書簡」(明石書店)という本を読んだ。とてもとても面白かった。もちろんそれは本のなかのことで、「かみ合わない」自分が一冊読んだからといってかみ合うはずもない。わからないことだらけだ。しかし面白い。魂を持っていかれるほどに面白いのだから、もしかしてこれは何かの宗教であるとか、人心を乱す詐術であるやもしれないと思うほどだ。しかしそうなっていないのは、生物学上・社会通念上の性別に違和を感じそれを持ち続けた彼・彼女らのほんとうの苦しみの強度が書簡のなかに宿っているから。

 この本のなかでも言われているように、トランスジェンダーというカテゴリー一つをとってみても千差万別、一人一人にその在り方が違い、あたりまえにわかろうとすればするほどわからなくなってゆく。

 

 8月18日の会では笹沼弘志さんにどうしたら社会のなかで彼・彼女らとともに暮らしていくことができるかというお話をしていただく。当事者が話すのではありません(もちろんご参加いただけるのであればそんなにうれしいことはありません)。笹沼さんは法学の先生であり、また長く静岡の街中を歩きながらホームレスの人たちの支援をされてきた方。学者で路上の人というのはこの町にはなかなかいない傑物だ。音楽もお好きでSNSなどで新しい音楽を教えていただくこともよくある。最初に「当事者ではなく」と書きましたが、ぼくよりもその当事者性の幅を広く持っている笹沼さんの思想と実践はやはりとてもオルタナティブであると思う。トランス・フォビアをもととする差別をいかになくしていこうということはもちろん、これまで、また現在笹沼さんが考えられていることなどもお話していただけたらよいなあと思っています。(市原健太)

 

笹沼弘志

1961年生まれ 静岡大学教育学部教授(憲法学)「野宿者のための静岡パトロール」事務局長としてホームレスと野宿者・生活困窮者の支援に取り組む

著書「ホームレスと自立/排除 路上に<幸福を夢見る権利>はあるのか」(大月書店 2008年) 「臨床憲法学」(日本評論社 2014年)