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「oak」さんの歴史

以前ここに書いたとおり、カレーとコーヒーの店「oak」に置いていた本を引き取らせていただきました。現在「oak」さんの棚を作って本を並べさせていただいています。
ほんとうに閉店を惜しむ声しきり、いままでさまざまな方からそんな声を聞きました。
そういえば「リッツ」がなくなったときもそうだったな、と思い出しました。
たまにしか行かない客が都合のいいことを・・・と、そういうことはあります。・・・・しかし、やっぱり惜しいと思います。この機会に言葉で何がしかを残せないものかと、店主の海野さんにお話をうかがうことにしました。お店の歴史ですから個人的なお話ですが、しかし結局それはぼくら一人一人の町並みのなかの記憶を形作っていた記録なのだとも思います。以下、お話をまとめさせていただきました。


開店日を教えてください

(海野さま、以下海) 1985年11月3日に開店しました。実質的には今年の三月いっぱいまでですから、二十八年になるのかな。

そのときはもうご結婚されていたのですか?

海 していました。始めたのは36くらいの時でした。

どんなきっかけでお店は始められたんですか。

海 まあいろんな理由がありましたけれど、ひとつは当時家族四人とおふくろ五人で住んでいたんですが、おふくろの体が少し弱かったものですから、だから転勤になる仕事が続けられなかったということはありますね。だったらもともとコーヒーやカレーが好きだったから、好きなことをしたほうがいいと考えたんです。

ここに来るお客様に聞いたのですが、最初はお父さまも手伝われていたとか。相当おしゃれな方だったと。

海 よくそういわれましたね。店の買い物なんかよくしてもらっていました。

当時、26年前の喫茶店というと・・・。「ういんな」ってありましたよね。

海 今と違ってたくさんありましたよ。「リッツ」もあったし、「りんでん」はまた再開するようですけど・・・。今はほとんどなくなってしまいましたかね。やはり文化というのかな、本とコーヒーというの付き物でしたからね。

でも「ちゃんと本を置く」というのはやっぱりこのお店の特徴でしたよね。今のブック・カフェの走りかもしれないと思います。

海 昔から本を置いていました。一人の自分の時間を本で楽しんでいただくようにとね。そう硬い本は置かなかったし、バランスよく置きたいなということは思っていました。いろんなジャンルの本がありますでしょ。あれは新聞の書評で選ぶというのが結構あったんです。偏らないように。

それから、これも人づてに聞いたのですが、望月通陽さんがお店のデザインをされたというのは。

海 いえ、デザインというより、以前からとても親しかったもので、お店に絵を描いていただいたり、伝票の文字を書いてもらったりということはありました。

どのようにお知り合いになったんですか?

海 もっちゃん(望月通陽さん)は開店の日から来ているんです。最初は彼のことを知りませんでした。いつも柔道着のズボンを履いて上はランニング姿、草履を履いてて、頭はぼさぼさでね。いつも一人で静かにスケッチか何かを描いているんです。どんな人なんだろうと思いましたよ。
これは後から聞いた話なんだけれど、筒描きをするとき、筒描きというのは染色の技法で、筒に入れた染料を押し出しながら模様を描いていくんですが、いちいちそのときに図案を考えながら描くわけにいかないんですね。だから製作の前にたくさんデッサンを作っておくんだといっていました。ここで描いていたのはそのデッサンなんです。
店に来てもいつも塗料で汚れているし、何をしてる人なのかなと思っていたら、たまたまその日うちの女房の知り合いの方と待ち合わせを彼がしてたんですね。それで初めてお名前を知りました。

まだ無名の頃ですよね。それからだんだん有名になっていく。ぼくは書店員でしたから、本の装丁で望月さんの画を見ていました。

海 当時は、彼がまだ初期の頃から知り合いだった大久保先生という方がおられて、「ギャラリー・ボワイアン」という画廊を岳見でやられていた方なんですが、もう銀座でやるような著名な作家さんたちの個展を静岡に呼んだりしていた方です。大久保先生がよく店に来られていまして、そうした方たちとのお付き合いのなかでだんだん実力をつけていったのでしょうね。

Oakはだからサロンのような場所ではあったわけですよね。

海 まあ、サロンというのか、どうなんでしょうね。定年退職した人とか、いろんな方たちが来てくださって、肩書きなんてのは関係なく、それぞれみんな一緒ですからね。
名刺の裏に書いていたんですが、それがぼくのこの店に対する考えなんです。ほんとにね、静岡の街の片隅で同じことをずっとやっていくというのが自分の店のスタイルです。「Simpy,Heartly,Naturally」というのが開店当初から考えていたことですね。

お客さまなんかとも海野さんのほうから話しかけられたりするんですか。

海 そうね、長いことやっていますと、この人は一人で本を読みたい人なんだとか、いろいろあるじゃないですか。少しお話したほうがいいのかなとかね。お一人お一人を見ながらやってましたけどね。
長いなかには、三年・四年で転勤していってしまう人もいるだろうし、開店以来今まで長く付き合っている人もいる。最初のお客さんというのは、東京の大学を卒業して、少し向こうで仕事をされて、それからこちらに戻ってきたころ知り合ったのかな。その頃はまだ独身で、それからずっと来てくださるんだけど、結婚して子供が生まれて、その子供がもう大学を卒業するくらいですからね。
最初アルバイトしてた子なんて今もう五十くらいですからね。

ダハハハハ・・・。

海 メインでやってくれるバイトはたいてい十年以上ですからね。みんないい子が来てくれてね。どこかみんな似ているというか、同じ感じの子が来てくれるんです。

やはり文系女子が集まるんですかね。

海 ほんとにね、同じことを飽きもせず同じことを繰り返してやってましたよね。

二十八年というのは長い時間です。店をそのように経営されていくのですが、社会のほうも変化していきますよね。簡単に言えばコンビニ化ということですけど、二百円でコーヒーが飲めてしまうお店など、今はどう思われますか?

海 ぼくも、このところ自分の店を閉めたから、ちょっと買い物に行った帰りに寄ったりするんですけれど、やっぱりあれはあれの良さがありますね。コーヒーがおいしいとか不味いとかそれはぜんぜん別として、場所としてのああした店の良さというものはあると思います。やはり個人の店というのはお客さんとの関係が密になるから、それがいいようで悪いところもあるし、つかず離れずで完全にほっといてもらえるというよさもまたあるんだと思います。いいところ、わるいところ、どちらにもあるということでしょうね。もちろん明らかにコーヒーはまったく違うものだということは思いますけどね。
ぼくは食べ物屋をやっているから、人間の口の中へ入るものを作っていますから、やっぱりある種のプライドは持ってやっていました。ファースト・フードの店は大量に安く仕入れて工場で作ったものを冷凍して各店舗に配送するわけですね。別に店にコックさんがいなくてもかまわない。でもそれだと責任を持つということができませんよね。やはり責任をもって作りたいなとは思っていました。その日によって、お客さんにはそんなにわからないことかもしれませんが、「あ、これちょっとイマイチの感じだな」とか、同じように作っても違うのが当たり前なんだということはいつも思っていました。誠意を持って作ろうとは思っていましたね。

遅くなりましたが、まずコーヒーのお話をお願いします。

海 戦争が終わったのが昭和二十年ですか。当時は余裕がないからコーヒーなんか飲まれなかった。需要が伸びてきたのは昭和三十年代、高度経済成長があってその後東京オリンピックですよね。だからそれまではコーヒーを焙煎する機械も小さな15キロ位のものだったんですね。今は一般に使われているのは60キロです。15キロは直火でできるんです。直火式焙煎と言ってね。それを使ってウチのコーヒーは焼いていたんです。清水のトクナガコーヒーという所。もちろん60キロの焙煎機もあるんですが、お父さんの代で使っていた15キロの機械で焼いてもらっていました。それをネルで落として、だからぜんぜん違うんです。そうだ、「リッツ」さんもネルだった。最後はその二店くらいでした。だから他とはまったく違うコーヒーが飲めたと思いますよ。

カレーはどんな種類があったんですか?

海 最初、カレーはシー・フード、ビーフとチキンの三種類。うちのはインドカレーを自分なりに変えたものなんだけれど、それを基本にスパイスを変えたり、ピンクのカレーを作ったり、いろいろ考えましたね。

いただいた本の匂いをかぐとスパイスの香りがするんですよ。

海 そりゃあそうですね、三十年来のスパイスが染込んでるんですから。

カレーは奥様が考えられていたんですか?

海 あれはね、作るアイデアというのはぼくが考えていました。で、それを形にするのは女房だった。いろんなカレーを考えましたね。おじいさん、おばあさんが来ても召し上がれるようなものですとか、全部で二十六種類あったんですが、毎日その中から肉のものと野菜のもの、マイルドなのとちょっとトンガったもの、二種類を選んでお出ししていました。ドライカレーがあったり、スープのようなカレーがあったり。チキンは四種類。ささみを使ったお年寄りでも食べられるもの。もうひとつはチキン・ド・ピアザで、本来インドではムルギード・ピアッザといってスープのようなモモ肉のカレー。あとチキン・マサラは骨付きのスパイシーなもの。コンビネーションといって二種類のカレーがお皿に載っているのも作りました。長細いお皿の真ん中にご飯をよそって右にスープ・カレー、左にそれに合うドライのカレーを載せたりね。

そういったアイデアというか、味は東京で覚えられた・・・?

海 学生で四年間は東京におりましたけど。カレーは好きだったからよく食べには行きましたね。でも今ほどはもちろん数は少ないですからね。だから今食べたら、どうなんでしょう、口に合ったかどうかわかりません。
ハンバーグなんてものは東京に行って初めて食べたんですから。クロワッサンなんてパンも初めてですよね。友だちがドンクの一号店だと思うんですが、「食べてごらん」と買ってきてくれたんです。こんなにうまいパンがあるのかと思いました。あれ以上のパンを食べた感激というのは今までにないですよ。
この間、三年ほど前、娘に教えてもらったのですが東京にヴィロンというパン屋さんがあるんです。その店はフランスから粉や水まで全部運んできてパンを作っているんです。東京に二軒しかないんですけどね。それを食べたのは二回目の衝撃でした。
それでもドンクのパンの衝撃はね。昭和43・4年だと思うんだけれど、あんな感激はなかったですね。

お店の調度品ですとか選ぶのは?

海 あれは全部ぼくが、ランプでも、何でも、女房が選んだものはなかったですね。長年かけて少しずつですけどね。まあ狭い店ですから、どこに何があるかわかるから、バランスを考えてね・・・・。

今風だとシンプルで何もなくてすっきりしている感じ、それがぼくにはシンプルすぎるんです。なんと言ったらいいのか・・・・・。

海 あったかいというのかな。木で作ってあるということもあるんですが、それ以外の温かみというのは必要だと思います。
確かに今雑誌なんかを読みますと、洒落ていて垢抜けた白い壁のカフェがありますよね。今の若い人たちは経験をしなくても、理解してしまうというのかなあ。だから失敗しないですよね。ファッションなんかもそうだと思うんですが、やっぱりそれは流行なのかな。

スマートすぎるというふうにぼくは思うんですが。

海 老成してるというのかなあ。
もしあそこまでシンプルにいくのであれば、本来はもっといろんな経験をした上で、そぎ落としていけばいいんだけれどね。
目白に「小道具の坂田」というお店があってね。以前「クロワッサン」だったかインテリアの特集があったんです。片一方には銀座の「ギャラリーかんかん」が載っていて、もう一方には「坂田」さんが載っていました。片一方は明らかに知識とお金があればできる店。坂田さんはやっぱり時間と人柄が作っている店なんですね。唯一個展をそこでやったのは、望月通陽さんだけなんですよ。

簡単にまとめすぎですが、やっぱりコンビニエンスなものではないものという・・・。

海 名刺の裏に「いつまでも小さく普通に濃くやっていきたい」と書いているんです。それは思っていましたね。
この名刺にはテーマがあってね、初めの頃の、モノクロのがあったでしょ。あれは店に置いてあるものを写真に撮ってね。あんなものが置いてあったよね、と皆さんに思い出してもらえるようなのを作りたかった。だからテーマは「oakの思い出」、それが最初です。その次がお兄さんに描いてもらったアンクル・オークのシリーズ。シーズンごとに着ているものを変えて描いてもらいました。これが終わって今度はアヴァンギャルド風のをやりたいなと思っていたけれど、それは結局できなかったですけどね。

でも、ロシア好きというのは少し以外でした。

海 以外ですか?でもロシアというより、このロドチェンコとか東欧で起こったデザインの運動というのかな。デザイン的にすごく好きなんです。

先ほどの「長く濃く」ということですけど、だからこの一ヶ月ほどは大分悩まれたのでしょうか。

海 それはもう、頭のなかがパニックになってしまってましたね。今でもそうかもしれないな。まあでもそういうものが与えられたのかなと思っていますけどね。
でも、まだね、掛川の駅の構内でうちのコーヒーを売ってるんですよ。店の営業をやめてからも、置かせてもらいたいということで。清水にあるコーヒー屋さんからoak用にブレンドして仕入れているんだけど、もうこちらはまったくタッチはしてないんですが、まだ売ってるんですよ。

最後、やっぱりぼくは古本屋ですから、また本に戻るんですが、oakさんはほかのお店よりも一歩突っ込んで本を店に置かれていたんだと思います。今は本をディスプレイ用に選書するスペシャリストまでいるんですから、やはりその意味ではそうしたカフェ文化の走りといっていいと思うんです。

海 本もそうですけれど、音楽、店ではいろんなジャンルの音楽をかけていましたけれど、ジャンルはそれぞれありますが、いわゆるバロック的なものというのかな。どこから聴いても、どこで終わってもいいような感じのもの。シンフォニーですと最初から最後まで通じて物語がありますでしょ。バロック的なものは短いセンテンスで緩急の繰り返しですから、そういうものを選んでいました。本でも同じように考えていましたね。途中まで読んで、次に来たときにすんなりと読み始められるようなもの。

本を見せていただいて、一番思うのは、静かに毎日を過ごしていけるような本、というふうに思いました。

海 そうですね。よくね、本好きのお客様からは「バランスの取れたいい本が並んでるね」といわれることはありましたね。

もうひとつ、ぼくにはできないなと思うことは、女性の目線で選ぶことができるじゃないですか。特にその年代の方では珍しいと思うんですよ。

海 それは何でしょうね・・・、なんとなくね、子供のころからわかるということはあるんです。なんといったらいいのかな。本屋に行って、別に男性誌女性誌と区別してみるわけではなくて、ザーッと棚を見ていくうちに、これは買っておいたほうがいいなと思う本はわかるんですね。見ていて「濃い」というのかな、「さらっとしていない」という感じなのか。『ku:nel』にしても、創刊前に三号準備号が出ているんです。やっぱりそういうものが濃いんですね。
今は『GINZA』が面白いですね。平林奈緒美さんというデザイナーの方が編集に入って今を感じさせるデザインになって面白くなりました。

こんなにね、雑誌が大変だ大変だというときに、そこまで読んでる方がいるというのは・・・・。

海 今の『POPEYE』だって面白いじゃないですか。普通の印刷の上に突起を出してデザインしたり、表紙に写真ではなくイラストを使ったりね。編集は昔に返ってるんですが、でも今を切り取ってもいる。

ぼくは新刊書店をやめて五ヶ月、昨日もいただいた『銀花』を読みながらただただ昭和を懐かしんでいましたが、うーん、だめですよね、それじゃ・・・・。

海 何なんでしょうね、なんとなくわかるんです。「あ、この人はこんな本を読んで、こんなものを着て、こんな生活をしてるんだな」ということがわかるんです。
子どものときから、たとえば三つの白い靴のなかからどれかひとつを選べというときにね、間違いなく正解のものを選べたんですね。なんてことない白い運動靴ですよ。でも正しく選ぶというのかな。
ぼくは自分で服を買うようになるのは中学二年からなんですが、もちろん失敗もありますけど、すぐに間違いなく選ぶようになったんですね。何だろう、だから変わってるといえば変わっていたんでしょうね。

お父さんの影響というのは?

海 それはあるかもしれませんね。親父はパイプやライターが好きで集めていたり・・・。

当時の海外文化というのか、洋行文化というのか、そういうものが染み付いてしまっている人なんですね。

海 どこへ行ってもお洒落なお父さんだね、といわれましたからね。
今思い出しましたが、鎌倉の二の酉の隣に「鎌倉KENT」という洋服屋さんがあったんですが、そこでね、一度だけ羽仁五郎を見たんです。そこのお客さんだったんですね。すごくオーラのある人でした。

スタイリッシュだということですか?

海 そう。当時『都市の論理』(1968年刊)を出して売れているころかな。六十代半ば位。あの人はすごかったな・・・・。

左翼文化人がそれほどスノッブに見えたというお話は個人的にもっと聞きたいのですが、きりがなくなってしまいます。長い間、お話ありがとうございました。